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内外野の境界線を越えてくるフィリピン社会での闘い方。
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【2008/12/08 11:36】 | フィリピン人と付き合うとき忘れたくないこと | page top↑
殺されるには訳がある。
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【2008/06/27 15:30】 | フィリピン人と付き合うとき忘れたくないこと | page top↑
なにかが間違っている。
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【2007/11/16 20:13】 | フィリピン人と付き合うとき忘れたくないこと | page top↑
バブルの様相を呈してきたプエルトガレラ、そしてフィリピン。
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【2007/11/13 10:52】 | フィリピン人と付き合うとき忘れたくないこと | page top↑
日本人がフィリピン人と付き合ううえで、忘れたくないこと。
8月に戦跡めぐりをした後書いた「フィリピンと日本のボタンの掛け違い」で約束した旅のレポートをします。ハッピーな海外ウェディングのメッカを標榜するなら、普通そういう話題を避けるのが従来のマーケティングですが、物事の上っ面だけの商業主義から本当の「幸せづくり」ができるとは思えません。人生いい時もあれば悪いときもある、それを見据えるのが結婚。だから現実を避けることなく伝えることが幸せになるうえで大切だし、むしろいちばんの近道だと考えます。フィリピンはいいところですが日本人との間に誤解が生じやすい近くて遠い国です。乱暴に要約してしまえば、加害者と被害者の関係だからだと思います。殴った者は殴ったことさえ忘れてしまうが、殴られた者はいつまでも覚えている。「フィリピン人はもう戦争のことなんて何とも思っちゃいないよ」と、日本人はフィリピンで長く住んでいる方もおっしゃいますが本当でしょうか? 私はいくつかの旅の途上で「ハポン」と呼ばれた声の調子や、パラワン島で「酔っ払っているフィリピン人には近づくな」と年配のフィリピン人から忠告されたこと、セブの北のバンタヤン島で旧日本軍の強姦虐殺を唇を震わせながら語られたことから、フィリピン人の潜在意識に何かが埋め込まれているような気がしてなりませんでした。プエルトガレラ周辺には戦争の足跡はありませんが、親しくなった大家の若い息子に酒の席で「テッド、カミカゼって言葉フィリピン人にどう捉えられてるか知ってるか? この世で最も恐怖心を掻き立てられ最も疎まれてるんだって憶えておけ」といわれ、たとえ親族が戦争の被害に会ってなくともこの国の国民が傷を共有しているに違いないと感じました。フィリピンでは、スペイン、アメリカに妥協したのち初代大統領に就任しながらアメリカに敗北すると命乞いしたエミリオ・アギナルドは英雄視されており、生きることが第一ですから、命を捨てても惜しくない考え方はとうてい理解できないし、そんな人間に襲われることは想像も絶するでしょう。生きるために戦う人間と死ぬために戦う人間では戦いになりません。世界においては捨て身になることがそれだけでどんなに相手を傷つけるか知っておいた方がいいでしょう。そんな考え方をするのは私が知る限り日本人とテロリストだけです。

※各写真はサムネイル画像をクリックしてオリジナルのサイズでご覧ください。

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読者の方からバタンガス湾に特攻の基地があったことを知った。プエルトガレラからフェリーでバタンガス港に達するとき西に望むあたりがマイナガで、爆弾を積んだ舟で敵艦に突っ込む特攻を後方支援する基地があったという。1945年2月に米軍はバタンガスに再上陸したらしいから海の藻屑と消えた特攻隊員がいたであろう。手を合わせる。バタンガスに渡った私はまず市役所で情報を集めた。ところが、誰も知らない。記録も残っていない。ようやく、Mabini(マビニ)、Taysan(タイサン)、Cuenca(クエンカ)という三つの地名を得た。大岡昇平「俘虜記」に出てくるバタンガス大隊本部はどこにあったか不明だったが、まず近くのマビニに行ってみることにする。

バタンガス湾に沿った道路を行くと、バタンガス港のように整備されてはいないがここら一帯は工業港のようで大型船がいくつも停泊している。マビニの手前がマイナガ(マビニ町のひとつのバランガイ)で、このあたりだろうとあるサリサリストアの前でクルマを停めた。男たちがトランプに興じていた。「ここらに第二次大戦中に日本の特攻基地があったと聞いたんだが」というと、男たちはにやにやしたまま知らないといった。年寄りが知っているという。マビニ町役場へ行けという。コーラを飲み干そうとするころ、ひとりの男が道路のすぐ向こう側にある小山を指差して「あの丘にはたくさんの日本兵の骨がある」といった。雨垂れが落ちる軒越しに見える風景は何の変哲もない。「何年か前に日本人が骨を拾いにきたがまだ残っている」「誰に殺されたのか?フィリピン人か?」「アメリカ兵との戦闘だ、そうとうの数が死んだ」屍体は何十年も放置されていてずっとそのままの状態で残っていたのだという。彼はそれ以上は知らないようだった。年の頃は50には達していないだろうか? マイナガで生まれ育ったのか聞いてみるとそうだという。彼らの態度や口調に恨みや不可解なものは感じられない。ただ、屍体だけが彼らに事実を伝えていたことになる。しかし、死んだあと埋葬もされないのはやはり哀れである。小雨の山に手を合わせて祈り、マビニ町役場へ向かう。
「老人」というのが誰を指すのかわからず役場内をうろうろしたが、ようやくエグゼクティブアシスタント(マビニ町役場のNo.2)だとわかる。Macaris B Parcojio氏で77歳、戦争時は小学生だったという。「マイナガに日本軍の特攻基地があったと聞いているが、バタンガス市役所ではマビニが激戦地だったといわれた。何かその跡とか記念碑のようなものは残っていないか? 一般的に特攻基地に付随して従軍慰安婦所もあったと聞いているが」と話しても反応はない。「日本軍のオフィスはどこにあったのか?」と訊くと海岸沿いにあったというだけで具体的な場所はわからないかのようであった。どうやらこんなことを訊ねる者はいなかったらしい。高齢で少し惚けているのだろうか? それとも当時小学生では知りえないことなのか? しかし私が「日本の組織という組織はいまだに軍隊そのものである」というと「私もその通りだと思う」と賛同したので惚けているとも思われなかった。氏はにこにこしながら今日の日本を持ち上げる話に終始していた。その様子から私には何かを隠しているかのように察せられた。

翌日、タイサンに向かった。バタンガスシティから20kmの内陸の町である。ここにはどういうわけかBundok ng MaynilaまたはMount of Manilaと呼ばれる山があって日本人がよく訪れるとか。話を聞きに役場を訊ねると若い職員たちが応対してくれ、戦争中にマニラに行軍していた日本軍が標高610mの山の山頂に立ったとき、遠方に広がる風景をマニラと勘違いしたのだといった。マニラからは94kmも離れておりありえない話なのだが、戦争中はありえない話が起こるということだろう。タイサンのあたりには多くのゲリラがいて多くの日本兵が死んだらしいが、同山はいま近郊ロボの美しいビーチやリパシティ、バタンガスシティを望む絶好の集会キャンピングサイトとして活用されているという。沖縄県出身の上原清善氏はタイサンでゲリラに捕らえられたが殺されず釈放され、これを恩に思って戦後沖縄で儲けた金をばらまき続けた。タイサンには1977年に建立された「沖縄の塔」もあり、第二次世界大戦中フィリピンで戦没した県系人をまつるものだという。また、沖縄県政府とともに上原氏が寄贈した守礼の門、事務所建物はいまは朽ち果てつつある。役場の若い職員もこれら建造物については触れなかった。外に出て偶然見つけたような格好だが、日本を捨てた私がフィリピンに肩入れしているせいか守礼の門の意匠はなにか浮いているように見えた。その隣にはメディカルセンターがあって、これも日本のNGOにより何年か前に寄贈されたという。なぜタイサンなのか理由は見つからず日本大使館からの紹介だったとのことなので、上原さんの美談に便乗しただけだろう。わが国のODAが当地での効果も吟味されずこんな風に使われているのをよく見かけるが、これでは渡した後に私利私欲で使われてしまっていると嘆く方にも責任はあるだろう。こういう国であるこそ、使途と効果を十分吟味しなければならないし、金やモノをぽんと渡してハイ終わりではぜんぜん援助にならない。腹を割る付き合いこそ、援助というものだ。

雨が降っていたこともあったし、タール湖に近いクエンカは日本人戦没者を祭るシュライン(神社)の場とのことだったので、フィリピン人の視点で見ている私はパスすることにして、クルマを飛ばして北上しリパシティに着いた。ここでもまず市役所に趣き情報を訊ねるが埒が明かない。死者1万人以上というマニラ大虐殺以上の犠牲者を出したとされるバタンガス州大虐殺で中心地的だったリパシティだとは思えない。最終的に市長室に通され面談したが、新任の市長は何も知らなかった。ただ日本人が記念碑を建てた郊外のバランガイ、Lumbang(ルンバン)のことは知っていて、金儲けの話に興味がありそうだった。私の探訪目的をノーブルだといった。後にルンバン近くで立派な門構えのゴルフコースを一瞥してなるほどなとは思った。リパシティにも戦争の記録は何も残っていないそうだが、私が知る限りとして側近のひとりが口を開いた。「少なくとも、すぐそこの農業局の敷地にフィリピン人の虐殺屍体が山積みにされたのは確かです」「そこで殺されたんですか?」「運び込まれたんでしょう」「どこですか?」「すぐそこです」市役所前の幹線国道を渡るとすぐ広大な敷地があり、メインオフィスで確かめたがそんなことは知らないといった。私は雨のなかで傘を横に置き、敷地の奥の方に向いて合掌した。

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リパシティに一泊すると、クルマで市役所から15分位のルンバンに赴いた。最初に目に入ったのが、1995年に戦後50周年を記念して日比の戦後を考える会(横浜支部代表大畑さく氏)と比日文化協会会長三木睦彦氏が募金活動をして建設したという、世界平和祈念塔だった。いったいこの意匠は何を意味しているのか? かつて日本の駅という駅前に立ち並んだ箱物行政による意味不明なオブジェたちを思い起こさせるが、献金した日本人たちの名前はこれ見よがしに刻まれていた。私は三木氏にお会いしたこともないし何の恨みもないが、こういうお金の使い方をしていったい皆のためになるのか疑問に思わざるをえない。フィリピン人がここに足を運ぶとも到底思えぬし、(戦争を経験した)日本人の自己満足ではないか?

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幸いにもバランガイの入口にいた警察官が非番とのことで慰霊碑と慰霊堂がある「メモリアルパーク(と彼はいっていた)」に案内してくれた。バランガイの住宅街から外に抜けるあたりにあって、メモリアルパークの向かいにもいくつかの民家があった。後で知ったことだが、そこに住む老人も虐殺から生還したひとりで、身体にもの凄い傷を負っているとのことだった。

荒廃著しかったこの慰霊碑と慰霊堂を、横浜を拠点とする日比の戦後を考える会が、ルンバンの人々の協力のもとに修復し、二体のエンジェルを寄進して、1992年2月に初めて日比両国人参加による慰霊祭が行われました。爾来、毎年その慰霊祭が行われてきたのです(「三木睦彦のホームページ」より)


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ルンバンでは女性、子供を含め約1,600人が殺され、このコンクリートで固められた地面の下には少なくとも1,200人の亡骸が眠っているという。日本の灯籠が二基見えるが、死者はこんな日本的なものを贈られてどう思うであろうか? 慰霊堂の献辞にには「名も知れず埋もれ果てし君ありて愛と平和の世界来たらむ (三木睦彦)」とある。戦時中に文部省宗教局に勤務した三木氏としては日本軍の行いを否定することができないのだろうが、間違いは間違いと認めなければ死んだ者は報われぬと思う。それはなにも虐殺されたフィリピン人や、総計で120万人といわれるフィリピンの犠牲者たちだけでなく、フィリピンで死した52万人とされる日本人についてもいえる。私たちは間違っていた、それをあなたたちは教えてくれた、貴重な死だったありがとう、ということではないのか? そういう思いで私は手を合わせた。

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虐殺時のことを知りたいというと、案内してくれた警察官の彼は虐殺から逃れた人に会いたいか、と訊いた。私は恐ろしい思いがしたが、会って何かを確かめたいと思った。メモリアルパーク前の住人も犠牲者だということは後から知ることになり、このときはクルマで数分戻った住宅街のあばら屋のひとつを案内された。娘や孫、ひ孫と思われる家族がいて、「日本人が来た」と二階に呼びにいくと階段を降りてきた老人は、私に向かってにっこりと微笑みかけた。堪らない思いがした。彼はすぐに首を指差し、シャツをめくって心臓脇、ズボンをたくし上げて右腿の銃剣跡を見せてくれた。こんなもの見るのはもちろん初めてである。本当に言葉を失った。虐殺時の状況をいろいろ訊くつもりだったが、頭をがーんと殴られたようでただただ悲しい思いになった。娘さんがいろいろ話してくれたが、老人はもちろん、彼女の顔を顔を上げて見据え視線を交わすことができなかった。無言が続いた。俯いている私に、娘さんが「彼を見なさい」といった。「彼は泣いている」老人の目がうっすらと濡れていた。Erenio de Guzmanさんは83歳で当時22歳、虐殺で55歳の母と8歳から37歳まで5人の家族を亡くしたという。

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首にはニ箇所切り落とそうとされた傷があった。これまで日本政府はおろかフィリピン政府からも何の補償もないそうで、フィリピン政府からは「こんな傷でっちあげだ」といわれたという。私にできることは何か? こういう事実を知らしめ注意を喚起することに他ならない。写真に撮っておかなきゃと思ったが、ショックでカメラを構える気にもなれず、後日撮影させてもらうことにした。したがって、掲載されているポートレートはニ回目にお会いしたとき撮ったものだ。(上のメモリアルパークの写真もニ回目に訪問したとき撮った。)

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左胸には深い刺し傷。本当によくこれで一命を取り留めたものだ。日本兵がErenio de Guzmanさんが死んだと思ったので助かったのだという。死んだふりをして生き抜いたのだという。バタンガス州での大虐殺は追い込まれ“カミカゼ精神状態”となった日本軍がゲリラ一掃という名目で一般市民に無差別に行ったものだが、Erenio de Guzmanさんも当時ゲリラのメンバーだったとのことだ。それでもこのやり方は許されるべきではない。捨て身になった自暴自棄の犠牲である。

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腿にも刺し跡。一回目にお会いしたときには傷のひとつひとつに圧倒されこの傷ももっと凄い傷に見えたのだが、あの邂逅の後ふたたび訪れて写真に収めようとすると、なぜか傷が目立たなくなっているように見えた。日なたで撮っているせいかと思い日陰に移って撮ったが同じだった。オカルティックないい方だが、私がいっしょに悲しんだことで少しは心の傷が癒えそれが外傷にも現れたのならと想う。私はいい歳をしてまだ想う力を信じている。アナログフィルムにこだわるのも想念が伝わる気がするからだ。ものごとは1+1=2ではない。

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一回目の訪問で別れ際、皆さんにお礼をとお金などでなく"PGW"ベルトを配ると喜んでもらえた。そしてニ回目に訪れたとき、親族のひとたちは思いがけないものを用意していた。米軍War Crimes Investigating Detachment(戦犯調査隊)およびGeneral Headquarters, United States Army Forces, Pacific Office of The Theater Judje Advocate, War Crimes Branch(戦犯部門戦域審判弁護団極東事務所米軍統括本部)の調査資料コピーだった。上は戦犯調査隊によるもので、背の高い方が当時22歳だったErenio de Guzmanさん、小さい方がIshidro de Guzmanさんだ。Erenioさんには背中にも刺し傷があったことがわかる。写真は1945年10月撮影とある。
もう一方の資料は1945年作成とあってINVESTIGATION: The massacre of more than one thousand civilian men, women and children by memberes of the Japanese Armed Forces on 5 March 1945(調査:1945年3月5日日本軍による一般市民男性、女性及び子供1,000名以上の大虐殺)、Place: Barrios of Lipa, Batangas, Luzon, P. I.(場所:フィリピンルソン島、バタンガス、リパの居住区域)"とある。これによると1945年3月5日午後9時頃日本軍により1,000人程のフィリピン人がリパのブリハン居住区に集められ殺害は4時間に渡ったとされ、崖から落とされた遺骸は川沿いに500~600を数えたとある。

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ニ回目の訪問時にメモリアルパークを撮っていたときに近くに住むAniano Mercadoさんに出会い、Erenioさんの写真を撮った後、キリングフィールド(虐殺現場)を撮影したかった私を案内してくれた。バランガイ中心の住宅街からはクルマでも10分以上の距離があったが、彼が付近の少年たちに声をかけるとそのなかから山刀を携え無邪気な顔をした少年二人がやってきて私たちを案内してくれた。森の中に入っていくと迷うこと無く進路を進める。私には何が目印か皆目わかならいのだが、幼い頃から慣れ親しんだ場所なのだろう。歩きながらガイド役のAnianoも「俺も昔来たがどこだったかわからない」といった。

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森の中ほどと思われるところにある木が一つ目の虐殺場だったという。男たちと女子供に分けられたフィリピン人たちは互いに手を結び数珠つなぎにされ連れてこられ、幹の回りに固定されると目隠しにされて、次々に銃剣で刺されたという。私より少し若い位のAnianoがそう説明したのだが、付近に生まれ育った者は誰もが親の世代から語り継がれて知っているといった。もっともなことだろう。あの無邪気な顔をして一念もないような子供たちも、物語の顛末をしかと聞かされているのだ。そうでなければいくら遊び慣れた森だとはいえ、こんな自然の中を一目散に来れる筈がない。

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さらに歩き続けると、もう一本の太い幹を指し示された。その向こうは崖だという。なるほど断崖絶壁で鬱蒼としていて下は見えないが川だそうだ。ここで前述と同様に銃剣でモノか何かのように刺され続けた犠牲者たちは、まだ息があるうちに次々に崖下に放られ、急斜面を転がり落ちたという。下を流れる小川は溢れた遺骸の血の色で真っ赤に染まった、と凄い形相をしたAnianoが身ぶり手ぶりを交えながら説明した。キリングフィールドなんて、映画の題名でしか聞いたことがなかったけれど、ここがその現場で、しかも私の先輩たちが行ったことなのだ。

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最初の訪問で撮影したのだが、世界平和祈念塔の近くに流れていたのがその小川だった。虐殺現場からは少し下流になるが、このあたりにも遺骸は流れ着き血の川と化していたに違いない。そしてその地獄図絵のなかから奇跡的に生還した方もいるのだ。

初回の訪問時に私は続いて隣のバランガイ、Talisay(タリサイ)に向かった。そこでも虐殺があったと聞いていたからだ。たむろしている男たちに声をかけると、30代位のTeody Villanuevaさんがバランガイキャプテンを紹介してくれた。彼もまだ若く、何も残っておらず知らぬという。そこでTeodyは「生き残りがいる」といって私を案内した。Teodyの家の軒先に腰を降ろすとさきほど手みやげにスプライトを買ったサリサリの中年女性も加わり件の老人はやってきた。彼は虐殺時は別のところにいて難を逃れたのだそうで具体的な話は聞けなかったが、このバランガイでは犠牲者たちは虐殺現場に三々五々連れていかれ村内にそういう場所はないようだ。むしろ、数キロ離れた険しい地形の山中で日本兵、米兵、フィリピンゲリラの激しい戦闘があり、夥しい遺骨が残っているという話がメインになった。日本からも調査団が訪れたという。あっちこっちに連れていかれて殺されたというだけで、フィリピン人虐殺現場については触れようとしなかったが、「死んだ日本兵は気の毒だが、私はむしろ謀殺されたフィリピン人のことを知りたい」というとようやく具体的な場所の名前が出てきた。やはり知っているのだ。
中年女性の口からはVilla Memorial Hospital(ヴィリア記念病院)の裏手の空き地という名前が出てきた。皆知っていたのはPucil(プシル)というバランガイに連れていかれて殺された者があるということだった。プシルは地図上にはなかったが、リパの中心街へ戻るのと同じ位の距離をタール湖方面に向かったあたりにあるといわれた。地図を広げているとタール湖の東岸を指でなぞり皆口々にこの辺で沢山の日本兵が死んだといった。おそらく敗走し湖の縁まで追いつめられ、逃げ場を失ってのことだろう。哀れである。日本を称える賛辞を話していた中年女性はこのとき私に「あなたのFellows(仲間)を祀ってあるところがタール湖東岸にある」といった。「仲間? そんないい方を俺にするのは止してくれ。俺は彼らといっしょじゃない。だからこそフィリピンに骨を埋めようとやって来たんだ」「アイムソリー」と彼女はいった。

まずは、リパの街中にあるヴィリア記念病院にいくと駐車場奥の家屋にいた連中に来意を伝える。無表情なまま、ついて来いという。病院の職員らしい。エントランスで、ここで待てというと中で病院長らしき男といつまでも話をしていた。やがてドクターは外に出てきて私に握手を求めると、私が聞いてきた話を全面的に認めた。ここに連れて来られた犠牲者は次々に銃剣で刺され放置されたという。何人位だったかというとManyといった。具体的に裏手空き地のどこだと訊くとそのモダンな病院のすぐ脇だという。見るとそこは何メートルも抉られ、今まさに病院の増設工事が行われんとしていた。命を奪われた者をベースに命を助ける場が建設されようとしているとは、なんという運命の巡り合わせかと思った。しゃがんで深く合掌した。

もうひとつ知った虐殺現場プシルは田園地帯のなかにあり見つけにくかった。バランガイロードにトライシクルが並び少年がたむろしていたので、聞いてきたことを確かめてみた。戦争世代から何世代か経っている彼らでも知っているかどうか試す意味もあった。すると、ひとりがひとりに耳打ちした。なにごとだろう? こんなことはフィリピンでも初めての経験だ。ふたりは秘密を確かめ合うかのようにした後、私に合図してついて来い、と歩きだした。何十メートルか先にあったのは普通の民家だった。住人に目的を告げていると40歳程の主が現れ、「おまえの身内は日本兵だったか?」と訊かれた。「父はそうだったが中国で戦った」と答えると、彼はいきなりコンクリートで固められた前庭の門扉脇を指し「そこだ」といった。そこにはモーターバイクが置かれているだけだ。どういうことだろう? 彼はそこに井戸があったといい、かつて日本兵は連れてきたフィリピン人を突き落とし銃剣で刺し続けたと話した。唖然とした。ここは私有地で彼らにとって迷惑だったので、まだ遺骨は残っていたけれど埋め立ててコンクリートで固めたという。「いままで遺族のフィリピン人たちはここを訪れたけれど、日本人が来たのはおまえが初めてだ」私はしゃがんで地中に向かって祈った。祈る気持ちがあるならAll Saint Day11月1~2日に来いという。いくら私有地とはいえあまりにも哀れだ。機会を見つけて行ってみようと思う。



正直、こんな旅は気が滅入る。こんなつらい思いを、自ら買って出るのはなぜか。でも、それが旅というものではないか。旅をしていれば必ず目にしたくないものや耳にしたくないものに出会う。だが、耳を塞いでいたのでは旅にはならない。なぜなら旅とは知らないことを知る作業だからだ。そして、そうして得たものは必ず財産になると信じている。



わかったのは、残虐な戦争の現場のことだけではなかった。具体的な虐殺の情報を知らなかった人も含めて、行き会ったすべてのフィリピン人が異口同音に「戦争中日本人は赤ん坊を宙に放り投げ落ちてくるところを刀で受けて殺した」と話した。こうした、日本人がフィリピン人に何をしたかという情報は小学校の教科書に記載されているということだ。フィリピンを旅しているとリパ大虐殺のような戦争末期で日本軍が追いつめられた状況でなくとも、日本軍が強姦した後皆殺しにした話は思いがけないところで耳にする。こうしたことから、日本人に殺された親族がいるいないに関わらず、フィリピン人一般の脳裏に“カミカゼ”という言葉とともに「かつて残虐極まりないことをした日本人」という意識がトラウマとして残っていることは間違いない。その意識は普段は決してオモテに出てこないが、日本人が思いやりのない振る舞いをしたときばーっと膨れ上がってくると思われる。
ひとりひとりが私のように旅をして確認することは不可能だろう。だが、こういう知識が露微もない日本人がフィリピンに来て、特にフィリピン社会で暮らすと、どういうことになるだろう? ボタンの掛け違いが根本的なところで起こるのは間違いない。だから、少なくとも文部科学省は日本の教科書に最低限でも間違いは間違いとして事実を記すように強く希望する。私は日本にいたらこんなこと一生知らずに死ぬところだった。この国際社会、もはやそれでいいじゃないかとはならない。
振り返ってみれば、戦後日本政府がしてきたことは何だろうと思う。Yahoo!セカンドライフで邱永漢氏は書いている。

人生の仕合わせとは何かについて、中国人と日本人で、また時代によって、考え方に違いがあるようです。
中国人は徹底的なリアリストですから何の疑いもなく「財子寿だ」とすぐにも言ってのけます。

「財」とは読んで字の如く、お金があることです。
「子」とは子供がいること、女の子は他家に嫁に行ってしまうので、男の子で、ちゃんと家門を継ぎ、親孝行であることが前提です。
「寿」とは寿命のことですから長生きをすることです。
日本文化も終戦までは基本的に儒教的精神を受け継いでいますから、日中間にあまり違いはありませんでしたが、戦後、小家族制度と北欧風の養老年金制度を採り入れて、親の面倒を子供が見るという美風から遠ざかってしまったので、「財子寿」の中の子供のところが抜け落ちてしまいました。
子供は年をとった親の面倒を見なくなってしまったばかりでなく、いくつになっても親に面倒を見てもらう人が多くなったので、親の方が心配で死ぬに死にきれず、おかげで長生きをしている――と漫画のネタになりそうな光景が随所に見られるようになりました。

厚生年金制度は結構だが崩壊寸前(いやもう崩壊しているか?)ではないか。アジアの一角として長年培ってきた価値観を無くす制度を取り入れたのは間違いだったと思う。いまの日本人は自分が欧米人の一部であるかのように錯覚しているが、西洋に行ってみればわかるが文化風土的にそんなことはありえないし、欧米人は日本のクルマをAsian Carsと呼んでいる。アジアのひとりなのに欧米人のように錯覚するアイデンティティ不在が、現在の日本人の最大の不幸だと思う。長年スペイン、アメリカの植民地でありながらもフィリピンにおいてはアジアの美風がいまだに受け継がれている。実際フィリピンには貧乏という言葉は似合っても、不幸とかアンハッピーという言葉は絶対的にありえない。「ものづくり」と「マテリアリズム」の中でロボットのようになってしまった日本社会はどうだろう?
フィリピンに対してあんな非道いことをしたのに今わが国がフィリピンにしていることは果たして何だろうか? フィリピン人の心をずたずたにし、他国の領土を蹂躙しておいて自国民の遺骨も放置しっぱなし。多くの戦死者を出した戦場という負のイメージを植え付けた。もっとこの国に積極的に関与してこの国民の心のケア・補償をし、自分がしでかした事の顛末を後始末してフィリピンイメージ回復に尽力するのが大人というものではないか。ところが現実はフィリピン政府にただ金やモノを渡して終わり。自らが生んだ負のイメージについては回復に努めるどころか、マスコミとともにフィリピンは酷いところだ酷いところだと流すだけではないか。結果として日本からはあまり好もしくない人たちも集まる。その人たちのやり方は武器が札ビラに替わっただけで日本軍と同じ。多くのフィリピン人もそういう人たちが日本人だと思うようになる。ちゃんとしてない人がさらにフィリピン人のメンタリティも理解しておらず、うわべだけの付き合いのためトラブルが起こる。それがまた日本で報道される、という悪循環だ。わが国の政府はわが国が有する責任を真面目に果たしていただかないと困る。
第二次世界大戦でのフィリピン全土の日本人戦没者数は52万人といわれているそうだ。だがその大部分の遺骨はまだ収集されず、戦没者の英霊はいまだフィリピンに取り残されているとされる。一方、フィリピン国ではあの戦争で120万人ともいわれる犠牲者が出た。それでもフィリピン人は、戦後、日本人生還者や遺族の方々を温かく迎えてくれたことを忘れてはならない。フィリピン戦没者慰霊碑保存協会HPを見ると、フィリピン全土の慰霊碑調査保守管理記録があってその数に驚く。

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日本軍のフィリピン侵攻と敗退を象徴するコレヒドール島をバタアン半島マリベレスから望む(2006年撮影)
All the photos above: copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

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テーマ:海外ニュース - ジャンル:ニュース

【2007/10/03 20:13】 | フィリピン人と付き合うとき忘れたくないこと | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
フィリピンと日本のボタンの掛け違い。
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【2007/08/25 00:17】 | フィリピン人と付き合うとき忘れたくないこと | page top↑
8月15日を迎えるにあたり。
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【2007/08/13 11:54】 | フィリピン人と付き合うとき忘れたくないこと | page top↑
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