アジア穴場リゾート情報・プエルトガレラより愛を込めて[Puerto Galera Wedding]
   海外挙式や穴場保養地に、フィリピンの著名なリゾート地プエルトガレラから現地情報。世界で最も美しい湾の一つは異次元の空気感、何もなくてもハッピーです。
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プロフィール

Tetsuya Endo (Ted)

Author:Tetsuya Endo (Ted)
1961年、静岡県生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒。
日本デザインセンター、東京グラフィックデザイナーズをはじめ広告企画制作業界でコピーライター、後クリエーティブディレクターとして15年以上務めるも、売れども売れども、買えども買えども満たされず。カメラを手にカナダ横断を往復するドライブで「アジアの日本人」である以外何者でもないアイデンティティを悟るとフィリピンに移住。トロピカルリゾート地プエルトガレラで、サステイナブルエコノミーを目指しEconomy & Ecology, ECOH!をスローガンに、新しいビジネスに挑戦中。日本にいちばん近く安い、海外ウェディングのメッカをつくろう。個人・グループのお客様にマニラからのトランスポーテーション手配、マニラ・プエルトガレラの宿泊手配をします。また、写真撮影も行います。平行して、フォト&ノンフィクション"Transition Japan""A Man Goes to North"等を上市できる出版社を探しています。

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タイムスパンを3年に区切って(3年で事業として目処が立たぬなら撤退)活動しています。人をタダ働きさせたうえ情報だけ盗む、義理人情のない非人間的行動はお慎みください。自分本位な方が来ても日本人の評判を貶めるだけです

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 殺されるには訳がある。
三井昌志さんがいいことをいっている。

一人旅が僕らに与えてくれる最大のもの。
 それは「自分を変える力」ではないかと思う。

 テレビのヴァーチャルトリップと違って、実際の旅は思い通りに行かないことの連続である。旅行者を騙そうと手ぐすね引いている現地人、決して時間通りに運行されない交通機関、食堂に潜む病原菌、予測できない天気の変化。
 そんな理不尽さ、不愉快さを前にして、きっと僕らは二つのことに気が付くだろう。
「自分はなんて無力なんだろう」ということと、
「こんなに無力な自分でも、何とか生き延びられるんだ」ってことに。

 旅先で、僕らは無力である。現地の言葉だって話せないし、困ったときに味方になってくれる友達もいない。何かトラブルが起きたら、全て自分の力で切り抜けなければいけない。
 でも、命を失うほどの危険は、そう滅多に出会うものではない。僕も冷たい汗が背筋を流れ落ちるような怖い経験を何度か味わったけれど、それでもなんとか生き延びている。

 こんなちっぽけな命でも、ちゃんと自分の力で守り抜くことができる。
 大丈夫。何とかなるはずだ。
 人間って意外に死なないものなんだ。
 一人旅をしていると、いつの間にかそんな実感を持つようになる。

 世界でももっとも安全で便利な国である日本では、そんな「生きている実感」を持ちにくくなったのかもしれない。
 生きているあいだに、人はいろんな困難にぶち当たる。「こうありたい」という理想の自分と、「こうである」という現実の自分との狭間で、しょっちゅう頭をぶつけ、軌道修正をしながら、何とか一人前の人間として成長していく。
 しかし今の日本の社会システムは、そういった個人の成長プロセスを、便利さと安全でもって先回りして、ことごとく潰しているように感じるのだ。

 日本にいればラクだし、便利だし、安全だ。
 しかし「だからこそ」僕らは旅に出るべきなのだと思う。
 一度便利さの外に出て、自分にとって本当に必要なものを見定めるために。
 今までの自分を捨て去って、新しい自分を発見するために。

(以上「旅空日記 旅写真家・三井昌志のブログ」の「旅に出よう 」から抜粋)


一人旅はいちばん自分を変えられるが、二人旅や三人旅であっても心の持ち方ひとつでそれは可能だと思う。いい思いをしたいだけなら、それは旅ではないし、そういうことを期待してグループで出かけるなら、得られるものは何もないであろう。砂漠にトイレなんてないし、大勢で出かけたからといってトイレが現れるわけではない。

三井さんは秋葉原連続通り魔事件についても触れ、「彼は最後まで「今の自分」を手放そうとはしなかった」「今の自分を捨てるのはかなり難しいことなのだと思う。何かを得る可能性よりも、何かを失ってしまうリスクの方に目が向きがちになってしまうから」と、述べている。

フィリピンは凶悪だとか誤解されて伝えられる国だが、理由もなく人が殺されることなんてありえない。殺害される者にはなんらかの理由がある。本人が気づいていないのは最大の不幸だ。メイド付の暮らしをしていては何十年もフィリピンに住んでいようとも何の現実もわからない。ひとの心を学ぶなら、この国がいちばんなのに。

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(2008/06/27(金) 15:30)

 なにかが間違っている。
日本大使館からこのようなメールをいただいた。

在留邦人の皆様へ

大使館からのお知らせ(クリスマス・シーズンを控えての安全対策)

2007年11月16日
在フィリピン日本国大使館

1.邦人関連事件
(1)当地報道等でご存じと考えますが、11月6日未明、帰宅途中の邦人男性が車を運転中、
バイクを追い越したところ、このバイクが同邦人の車を追いかけ、同邦人の自宅付近で銃撃すると
いう事件が発生しました。
幸いにして、銃弾は車に当たったのみで、同邦人が負傷するには至りませんでした。
(2)また、本年は、マニラやセブ、ミンダナオ等で邦人殺害事件が既に6件発生しており、いずれも
銃器による犯罪被害事件となっています。
(3)クリスマス・シーズンに向けて、外出する機会も増えると思いますが、過去の例を見ますと、この
時期、強盗や引ったくりなどの一般犯罪も増加する傾向にありますので、注意が必要です。
スリや置き引きの類でも、犯罪者を見とがめたために、逆恨みを受けて傷害を負う事案も少なくあ
りません。
(4)つきましては、トラブルを未然に防ぐという観点から、以下を参考にして自らの安全の確保に
心がけて下さい。
(a)犯罪を誘発する環境を作らない(目立たない。人前で現金を見せない。何人に対しても
暴力的な言動を取らない等。)
(b)むやみに他人を信用しない。うまい話、儲け話に乗らない。
(c)路上の一人歩きは避ける。繁華街での行動には気を付ける。
(d)犯罪の手口を知る。
海外安全ホームページ(http://www.anzen.mofa.go.jp/)参照下さい。
(e)車での移動の際は、飲酒運転はもちろんのこと、無用のトラブルを招くような乱暴な運転はしない。

なにかおかしいのではないか? 人間が人間として接していればそのような事件など起こらないはずだ。フィリピン人をばかにするな。

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(2007/11/16(金) 20:13)

 バブルの様相を呈してきたプエルトガレラ、そしてフィリピン。
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Copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

プエルトガレラにもこんな不動産広告がお目見えするようになった。1年前には何もなかった、例えば景勝地エスカルセオポイントの更地にも、次々と洋風の建物が建設中でプエルトガレラは不動産ブームのなかにあるといって間違いない。しかもそれらの瀟酒な家々は主が住んでいたかと思うや、すぐにFor Saleの看板が出ていたりして、物見遊山な外国人やそれを当てにしているかのようなフィリピン人の手によるものが多く、永住用というより転売用といった方が適切だ。人が入れ替わり立ち替わり住むような住環境はあまり好もしいとはいえない。「穴場リゾート地プエルトガレラの土地販売チラシの紹介」で「インフレはある意味では経済が発展するうえである程度は健全な作用ではないかとも思える」と書いたが、このような手法で値段が釣り上げられている現状はもはや「バブル」と呼んで差しつかえないだろう。

プエルトガレラで生まれ育った40前後の友人によると彼らが子供だった頃に較べそうとうリッチになったそうで、だからこそ人々はいまこぞって金を欲しがるのだという。そこで今までなかった高利貸し商売も広まってくる。(実際私の友達のひとりはその商売を始めた。)抜本的な好景気(実体経済)はプエルトガレラのようなところでは観光客増ないし外資の流入増でしか見込めず、日々の収入がそんなに増えてないにも関わらず負債超過による破たんが見られないのは、ひとえに人々が「バブル」に乗っかっているからだろう。だが、米サブプライムローン崩壊が実体経済を露にしていることを引き合いに出すまでもなく、幻想はいつか必ず現実に負ける。が、次にまた何かでっちあげればいいや的な考え方できたのがいままでの資本主義経済だった。

プエルトガレラで起こっていることはフィリピン全土で起こっていることで、それはそのまま先進国といわれる国が辿ってきた経済発展の過程の受け売りである。さすがに経済の専門家だけあってアロヨ大統領の施策はフィリピン経済を順調に発展させているかのように見える。しかし本当だろうか? モノ余りの成熟社会日本でマテリアリズムの限界を見てきた私には、問題の先送りにしか見えない。「もうたくさんだ、いい加減にしてくれ」と日々を過ごしている諸氏は日本のみならず、米国はじめ先進国には多い。フィリピン経済の好調さは安い人件費でもたらされているにすぎず、その点において中国や他の東南アジア諸国に対して特に優位というわけではなく、フィリピン独自の産業育成がいまだなされていない。はっきりいってフィリピンの優位性はその「素朴さ」「簡素さ」「原始性」にある。アンチマテリアリズムを実践する"Economy & Ecology, ECOH!"の場としてフィリピンを選んだ理由のひとつもそういうところにある。

「地元でのエコビジネス推進の取り組み〜Villa Malasinboより」
でも述べたようにまだ使える商品を次々捨て新しいモノを買う日本の暮らしが、いかに馬鹿馬鹿しいかわかっていたフィリピン人が、楽して儲けたい気質のために、食っていくには困らず精神的に満たされている「心」の文化から「金」「金」といい出すのを目の当たりに見るとたいへん悲しい気分になる。私は私の思うところをストレートに話す。物質的成熟を経験していない彼らには理解してもらうのは難しいだろうが、こちらの気分は伝わる。フィリピンには日本の轍を踏んで欲しくないと思うし、マテリアリズムから逃げてきた先進国の人間がこの国で人々にどう接するかは本当に大切だと思っている。ぜったいお金をばらまいてはいけません。それはかえって思いやりのない行いです。ばらまくならどのように使うかまで踏み込んだうえでお金を渡してください。
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(2007/11/13(火) 10:52)

 日本人がフィリピン人と付き合ううえで、忘れたくないこと。
8月に戦跡めぐりをした後書いた「フィリピンと日本のボタンの掛け違い」で約束した旅のレポートをします。ハッピーな海外ウェディングのメッカを標榜するなら、普通そういう話題を避けるのが従来のマーケティングですが、物事の上っ面だけの商業主義から本当の「幸せづくり」ができるとは思えません。人生いい時もあれば悪いときもある、それを見据えるのが結婚。だから現実を避けることなく伝えることが幸せになるうえで大切だし、むしろいちばんの近道だと考えます。フィリピンはいいところですが日本人との間に誤解が生じやすい近くて遠い国です。乱暴に要約してしまえば、加害者と被害者の関係だからだと思います。殴った者は殴ったことさえ忘れてしまうが、殴られた者はいつまでも覚えている。「フィリピン人はもう戦争のことなんて何とも思っちゃいないよ」と、日本人はフィリピンで長く住んでいる方もおっしゃいますが本当でしょうか? 私はいくつかの旅の途上で「ハポン」と呼ばれた声の調子や、パラワン島で「酔っ払っているフィリピン人には近づくな」と年配のフィリピン人から忠告されたこと、セブの北のバンタヤン島で旧日本軍の強姦虐殺を唇を震わせながら語られたことから、フィリピン人の潜在意識に何かが埋め込まれているような気がしてなりませんでした。プエルトガレラ周辺には戦争の足跡はありませんが、親しくなった大家の若い息子に酒の席で「テッド、カミカゼって言葉フィリピン人にどう捉えられてるか知ってるか? この世で最も恐怖心を掻き立てられ最も疎まれてるんだって憶えておけ」といわれ、たとえ親族が戦争の被害に会ってなくともこの国の国民が傷を共有しているに違いないと感じました。フィリピンでは、スペイン、アメリカに妥協したのち初代大統領に就任しながらアメリカに敗北すると命乞いしたエミリオ・アギナルドは英雄視されており、生きることが第一ですから、命を捨てても惜しくない考え方はとうてい理解できないし、そんな人間に襲われることは想像も絶するでしょう。生きるために戦う人間と死ぬために戦う人間では戦いになりません。世界においては捨て身になることがそれだけでどんなに相手を傷つけるか知っておいた方がいいでしょう。そんな考え方をするのは私が知る限り日本人とテロリストだけです。

※各写真はサムネイル画像をクリックしてオリジナルのサイズでご覧ください。

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読者の方からバタンガス湾に特攻の基地があったことを知った。プエルトガレラからフェリーでバタンガス港に達するとき西に望むあたりがマイナガで、爆弾を積んだ舟で敵艦に突っ込む特攻を後方支援する基地があったという。1945年2月に米軍はバタンガスに再上陸したらしいから海の藻屑と消えた特攻隊員がいたであろう。手を合わせる。バタンガスに渡った私はまず市役所で情報を集めた。ところが、誰も知らない。記録も残っていない。ようやく、Mabini(マビニ)、Taysan(タイサン)、Cuenca(クエンカ)という三つの地名を得た。大岡昇平「俘虜記」に出てくるバタンガス大隊本部はどこにあったか不明だったが、まず近くのマビニに行ってみることにする。

バタンガス湾に沿った道路を行くと、バタンガス港のように整備されてはいないがここら一帯は工業港のようで大型船がいくつも停泊している。マビニの手前がマイナガ(マビニ町のひとつのバランガイ)で、このあたりだろうとあるサリサリストアの前でクルマを停めた。男たちがトランプに興じていた。「ここらに第二次大戦中に日本の特攻基地があったと聞いたんだが」というと、男たちはにやにやしたまま知らないといった。年寄りが知っているという。マビニ町役場へ行けという。コーラを飲み干そうとするころ、ひとりの男が道路のすぐ向こう側にある小山を指差して「あの丘にはたくさんの日本兵の骨がある」といった。雨垂れが落ちる軒越しに見える風景は何の変哲もない。「何年か前に日本人が骨を拾いにきたがまだ残っている」「誰に殺されたのか?フィリピン人か?」「アメリカ兵との戦闘だ、そうとうの数が死んだ」屍体は何十年も放置されていてずっとそのままの状態で残っていたのだという。彼はそれ以上は知らないようだった。年の頃は50には達していないだろうか? マイナガで生まれ育ったのか聞いてみるとそうだという。彼らの態度や口調に恨みや不可解なものは感じられない。ただ、屍体だけが彼らに事実を伝えていたことになる。しかし、死んだあと埋葬もされないのはやはり哀れである。小雨の山に手を合わせて祈り、マビニ町役場へ向かう。
「老人」というのが誰を指すのかわからず役場内をうろうろしたが、ようやくエグゼクティブアシスタント(マビニ町役場のNo.2)だとわかる。Macaris B Parcojio氏で77歳、戦争時は小学生だったという。「マイナガに日本軍の特攻基地があったと聞いているが、バタンガス市役所ではマビニが激戦地だったといわれた。何かその跡とか記念碑のようなものは残っていないか? 一般的に特攻基地に付随して従軍慰安婦所もあったと聞いているが」と話しても反応はない。「日本軍のオフィスはどこにあったのか?」と訊くと海岸沿いにあったというだけで具体的な場所はわからないかのようであった。どうやらこんなことを訊ねる者はいなかったらしい。高齢で少し惚けているのだろうか? それとも当時小学生では知りえないことなのか? しかし私が「日本の組織という組織はいまだに軍隊そのものである」というと「私もその通りだと思う」と賛同したので惚けているとも思われなかった。氏はにこにこしながら今日の日本を持ち上げる話に終始していた。その様子から私には何かを隠しているかのように察せられた。

翌日、タイサンに向かった。バタンガスシティから20kmの内陸の町である。ここにはどういうわけかBundok ng MaynilaまたはMount of Manilaと呼ばれる山があって日本人がよく訪れるとか。話を聞きに役場を訊ねると若い職員たちが応対してくれ、戦争中にマニラに行軍していた日本軍が標高610mの山の山頂に立ったとき、遠方に広がる風景をマニラと勘違いしたのだといった。マニラからは94kmも離れておりありえない話なのだが、戦争中はありえない話が起こるということだろう。タイサンのあたりには多くのゲリラがいて多くの日本兵が死んだらしいが、同山はいま近郊ロボの美しいビーチやリパシティ、バタンガスシティを望む絶好の集会キャンピングサイトとして活用されているという。沖縄県出身の上原清善氏はタイサンでゲリラに捕らえられたが殺されず釈放され、これを恩に思って戦後沖縄で儲けた金をばらまき続けた。タイサンには1977年に建立された「沖縄の塔」もあり、第二次世界大戦中フィリピンで戦没した県系人をまつるものだという。また、沖縄県政府とともに上原氏が寄贈した守礼の門、事務所建物はいまは朽ち果てつつある。役場の若い職員もこれら建造物については触れなかった。外に出て偶然見つけたような格好だが、日本を捨てた私がフィリピンに肩入れしているせいか守礼の門の意匠はなにか浮いているように見えた。その隣にはメディカルセンターがあって、これも日本のNGOにより何年か前に寄贈されたという。なぜタイサンなのか理由は見つからず日本大使館からの紹介だったとのことなので、上原さんの美談に便乗しただけだろう。わが国のODAが当地での効果も吟味されずこんな風に使われているのをよく見かけるが、これでは渡した後に私利私欲で使われてしまっていると嘆く方にも責任はあるだろう。こういう国であるこそ、使途と効果を十分吟味しなければならないし、金やモノをぽんと渡してハイ終わりではぜんぜん援助にならない。腹を割る付き合いこそ、援助というものだ。

雨が降っていたこともあったし、タール湖に近いクエンカは日本人戦没者を祭るシュライン(神社)の場とのことだったので、フィリピン人の視点で見ている私はパスすることにして、クルマを飛ばして北上しリパシティに着いた。ここでもまず市役所に趣き情報を訊ねるが埒が明かない。死者1万人以上というマニラ大虐殺以上の犠牲者を出したとされるバタンガス州大虐殺で中心地的だったリパシティだとは思えない。最終的に市長室に通され面談したが、新任の市長は何も知らなかった。ただ日本人が記念碑を建てた郊外のバランガイ、Lumbang(ルンバン)のことは知っていて、金儲けの話に興味がありそうだった。私の探訪目的をノーブルだといった。後にルンバン近くで立派な門構えのゴルフコースを一瞥してなるほどなとは思った。リパシティにも戦争の記録は何も残っていないそうだが、私が知る限りとして側近のひとりが口を開いた。「少なくとも、すぐそこの農業局の敷地にフィリピン人の虐殺屍体が山積みにされたのは確かです」「そこで殺されたんですか?」「運び込まれたんでしょう」「どこですか?」「すぐそこです」市役所前の幹線国道を渡るとすぐ広大な敷地があり、メインオフィスで確かめたがそんなことは知らないといった。私は雨のなかで傘を横に置き、敷地の奥の方に向いて合掌した。

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リパシティに一泊すると、クルマで市役所から15分位のルンバンに赴いた。最初に目に入ったのが、1995年に戦後50周年を記念して日比の戦後を考える会(横浜支部代表大畑さく氏)と比日文化協会会長三木睦彦氏が募金活動をして建設したという、世界平和祈念塔だった。いったいこの意匠は何を意味しているのか? かつて日本の駅という駅前に立ち並んだ箱物行政による意味不明なオブジェたちを思い起こさせるが、献金した日本人たちの名前はこれ見よがしに刻まれていた。私は三木氏にお会いしたこともないし何の恨みもないが、こういうお金の使い方をしていったい皆のためになるのか疑問に思わざるをえない。フィリピン人がここに足を運ぶとも到底思えぬし、(戦争を経験した)日本人の自己満足ではないか?

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幸いにもバランガイの入口にいた警察官が非番とのことで慰霊碑と慰霊堂がある「メモリアルパーク(と彼はいっていた)」に案内してくれた。バランガイの住宅街から外に抜けるあたりにあって、メモリアルパークの向かいにもいくつかの民家があった。後で知ったことだが、そこに住む老人も虐殺から生還したひとりで、身体にもの凄い傷を負っているとのことだった。

荒廃著しかったこの慰霊碑と慰霊堂を、横浜を拠点とする日比の戦後を考える会が、ルンバンの人々の協力のもとに修復し、二体のエンジェルを寄進して、1992年2月に初めて日比両国人参加による慰霊祭が行われました。爾来、毎年その慰霊祭が行われてきたのです(「三木睦彦のホームページ」より)


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ルンバンでは女性、子供を含め約1,600人が殺され、このコンクリートで固められた地面の下には少なくとも1,200人の亡骸が眠っているという。日本の灯籠が二基見えるが、死者はこんな日本的なものを贈られてどう思うであろうか? 慰霊堂の献辞にには「名も知れず埋もれ果てし君ありて愛と平和の世界来たらむ (三木睦彦)」とある。戦時中に文部省宗教局に勤務した三木氏としては日本軍の行いを否定することができないのだろうが、間違いは間違いと認めなければ死んだ者は報われぬと思う。それはなにも虐殺されたフィリピン人や、総計で120万人といわれるフィリピンの犠牲者たちだけでなく、フィリピンで死した52万人とされる日本人についてもいえる。私たちは間違っていた、それをあなたたちは教えてくれた、貴重な死だったありがとう、ということではないのか? そういう思いで私は手を合わせた。

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虐殺時のことを知りたいというと、案内してくれた警察官の彼は虐殺から逃れた人に会いたいか、と訊いた。私は恐ろしい思いがしたが、会って何かを確かめたいと思った。メモリアルパーク前の住人も犠牲者だということは後から知ることになり、このときはクルマで数分戻った住宅街のあばら屋のひとつを案内された。娘や孫、ひ孫と思われる家族がいて、「日本人が来た」と二階に呼びにいくと階段を降りてきた老人は、私に向かってにっこりと微笑みかけた。堪らない思いがした。彼はすぐに首を指差し、シャツをめくって心臓脇、ズボンをたくし上げて右腿の銃剣跡を見せてくれた。こんなもの見るのはもちろん初めてである。本当に言葉を失った。虐殺時の状況をいろいろ訊くつもりだったが、頭をがーんと殴られたようでただただ悲しい思いになった。娘さんがいろいろ話してくれたが、老人はもちろん、彼女の顔を顔を上げて見据え視線を交わすことができなかった。無言が続いた。俯いている私に、娘さんが「彼を見なさい」といった。「彼は泣いている」老人の目がうっすらと濡れていた。Erenio de Guzmanさんは83歳で当時22歳、虐殺で55歳の母と8歳から37歳まで5人の家族を亡くしたという。

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首にはニ箇所切り落とそうとされた傷があった。これまで日本政府はおろかフィリピン政府からも何の補償もないそうで、フィリピン政府からは「こんな傷でっちあげだ」といわれたという。私にできることは何か? こういう事実を知らしめ注意を喚起することに他ならない。写真に撮っておかなきゃと思ったが、ショックでカメラを構える気にもなれず、後日撮影させてもらうことにした。したがって、掲載されているポートレートはニ回目にお会いしたとき撮ったものだ。(上のメモリアルパークの写真もニ回目に訪問したとき撮った。)

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左胸には深い刺し傷。本当によくこれで一命を取り留めたものだ。日本兵がErenio de Guzmanさんが死んだと思ったので助かったのだという。死んだふりをして生き抜いたのだという。バタンガス州での大虐殺は追い込まれ“カミカゼ精神状態”となった日本軍がゲリラ一掃という名目で一般市民に無差別に行ったものだが、Erenio de Guzmanさんも当時ゲリラのメンバーだったとのことだ。それでもこのやり方は許されるべきではない。捨て身になった自暴自棄の犠牲である。

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腿にも刺し跡。一回目にお会いしたときには傷のひとつひとつに圧倒されこの傷ももっと凄い傷に見えたのだが、あの邂逅の後ふたたび訪れて写真に収めようとすると、なぜか傷が目立たなくなっているように見えた。日なたで撮っているせいかと思い日陰に移って撮ったが同じだった。オカルティックないい方だが、私がいっしょに悲しんだことで少しは心の傷が癒えそれが外傷にも現れたのならと想う。私はいい歳をしてまだ想う力を信じている。アナログフィルムにこだわるのも想念が伝わる気がするからだ。ものごとは1+1=2ではない。

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一回目の訪問で別れ際、皆さんにお礼をとお金などでなく"PGW"ベルトを配ると喜んでもらえた。そしてニ回目に訪れたとき、親族のひとたちは思いがけないものを用意していた。米軍War Crimes Investigating Detachment(戦犯調査隊)およびGeneral Headquarters, United States Army Forces, Pacific Office of The Theater Judje Advocate, War Crimes Branch(戦犯部門戦域審判弁護団極東事務所米軍統括本部)の調査資料コピーだった。上は戦犯調査隊によるもので、背の高い方が当時22歳だったErenio de Guzmanさん、小さい方がIshidro de Guzmanさんだ。Erenioさんには背中にも刺し傷があったことがわかる。写真は1945年10月撮影とある。
もう一方の資料は1945年作成とあってINVESTIGATION: The massacre of more than one thousand civilian men, women and children by memberes of the Japanese Armed Forces on 5 March 1945(調査:1945年3月5日日本軍による一般市民男性、女性及び子供1,000名以上の大虐殺)、Place: Barrios of Lipa, Batangas, Luzon, P. I.(場所:フィリピンルソン島、バタンガス、リパの居住区域)"とある。これによると1945年3月5日午後9時頃日本軍により1,000人程のフィリピン人がリパのブリハン居住区に集められ殺害は4時間に渡ったとされ、崖から落とされた遺骸は川沿いに500〜600を数えたとある。

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ニ回目の訪問時にメモリアルパークを撮っていたときに近くに住むAniano Mercadoさんに出会い、Erenioさんの写真を撮った後、キリングフィールド(虐殺現場)を撮影したかった私を案内してくれた。バランガイ中心の住宅街からはクルマでも10分以上の距離があったが、彼が付近の少年たちに声をかけるとそのなかから山刀を携え無邪気な顔をした少年二人がやってきて私たちを案内してくれた。森の中に入っていくと迷うこと無く進路を進める。私には何が目印か皆目わかならいのだが、幼い頃から慣れ親しんだ場所なのだろう。歩きながらガイド役のAnianoも「俺も昔来たがどこだったかわからない」といった。

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森の中ほどと思われるところにある木が一つ目の虐殺場だったという。男たちと女子供に分けられたフィリピン人たちは互いに手を結び数珠つなぎにされ連れてこられ、幹の回りに固定されると目隠しにされて、次々に銃剣で刺されたという。私より少し若い位のAnianoがそう説明したのだが、付近に生まれ育った者は誰もが親の世代から語り継がれて知っているといった。もっともなことだろう。あの無邪気な顔をして一念もないような子供たちも、物語の顛末をしかと聞かされているのだ。そうでなければいくら遊び慣れた森だとはいえ、こんな自然の中を一目散に来れる筈がない。

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さらに歩き続けると、もう一本の太い幹を指し示された。その向こうは崖だという。なるほど断崖絶壁で鬱蒼としていて下は見えないが川だそうだ。ここで前述と同様に銃剣でモノか何かのように刺され続けた犠牲者たちは、まだ息があるうちに次々に崖下に放られ、急斜面を転がり落ちたという。下を流れる小川は溢れた遺骸の血の色で真っ赤に染まった、と凄い形相をしたAnianoが身ぶり手ぶりを交えながら説明した。キリングフィールドなんて、映画の題名でしか聞いたことがなかったけれど、ここがその現場で、しかも私の先輩たちが行ったことなのだ。

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最初の訪問で撮影したのだが、世界平和祈念塔の近くに流れていたのがその小川だった。虐殺現場からは少し下流になるが、このあたりにも遺骸は流れ着き血の川と化していたに違いない。そしてその地獄図絵のなかから奇跡的に生還した方もいるのだ。

初回の訪問時に私は続いて隣のバランガイ、Talisay(タリサイ)に向かった。そこでも虐殺があったと聞いていたからだ。たむろしている男たちに声をかけると、30代位のTeody Villanuevaさんがバランガイキャプテンを紹介してくれた。彼もまだ若く、何も残っておらず知らぬという。そこでTeodyは「生き残りがいる」といって私を案内した。Teodyの家の軒先に腰を降ろすとさきほど手みやげにスプライトを買ったサリサリの中年女性も加わり件の老人はやってきた。彼は虐殺時は別のところにいて難を逃れたのだそうで具体的な話は聞けなかったが、このバランガイでは犠牲者たちは虐殺現場に三々五々連れていかれ村内にそういう場所はないようだ。むしろ、数キロ離れた険しい地形の山中で日本兵、米兵、フィリピンゲリラの激しい戦闘があり、夥しい遺骨が残っているという話がメインになった。日本からも調査団が訪れたという。あっちこっちに連れていかれて殺されたというだけで、フィリピン人虐殺現場については触れようとしなかったが、「死んだ日本兵は気の毒だが、私はむしろ謀殺されたフィリピン人のことを知りたい」というとようやく具体的な場所の名前が出てきた。やはり知っているのだ。
中年女性の口からはVilla Memorial Hospital(ヴィリア記念病院)の裏手の空き地という名前が出てきた。皆知っていたのはPucil(プシル)というバランガイに連れていかれて殺された者があるということだった。プシルは地図上にはなかったが、リパの中心街へ戻るのと同じ位の距離をタール湖方面に向かったあたりにあるといわれた。地図を広げているとタール湖の東岸を指でなぞり皆口々にこの辺で沢山の日本兵が死んだといった。おそらく敗走し湖の縁まで追いつめられ、逃げ場を失ってのことだろう。哀れである。日本を称える賛辞を話していた中年女性はこのとき私に「あなたのFellows(仲間)を祀ってあるところがタール湖東岸にある」といった。「仲間? そんないい方を俺にするのは止してくれ。俺は彼らといっしょじゃない。だからこそフィリピンに骨を埋めようとやって来たんだ」「アイムソリー」と彼女はいった。

まずは、リパの街中にあるヴィリア記念病院にいくと駐車場奥の家屋にいた連中に来意を伝える。無表情なまま、ついて来いという。病院の職員らしい。エントランスで、ここで待てというと中で病院長らしき男といつまでも話をしていた。やがてドクターは外に出てきて私に握手を求めると、私が聞いてきた話を全面的に認めた。ここに連れて来られた犠牲者は次々に銃剣で刺され放置されたという。何人位だったかというとManyといった。具体的に裏手空き地のどこだと訊くとそのモダンな病院のすぐ脇だという。見るとそこは何メートルも抉られ、今まさに病院の増設工事が行われんとしていた。命を奪われた者をベースに命を助ける場が建設されようとしているとは、なんという運命の巡り合わせかと思った。しゃがんで深く合掌した。

もうひとつ知った虐殺現場プシルは田園地帯のなかにあり見つけにくかった。バランガイロードにトライシクルが並び少年がたむろしていたので、聞いてきたことを確かめてみた。戦争世代から何世代か経っている彼らでも知っているかどうか試す意味もあった。すると、ひとりがひとりに耳打ちした。なにごとだろう? こんなことはフィリピンでも初めての経験だ。ふたりは秘密を確かめ合うかのようにした後、私に合図してついて来い、と歩きだした。何十メートルか先にあったのは普通の民家だった。住人に目的を告げていると40歳程の主が現れ、「おまえの身内は日本兵だったか?」と訊かれた。「父はそうだったが中国で戦った」と答えると、彼はいきなりコンクリートで固められた前庭の門扉脇を指し「そこだ」といった。そこにはモーターバイクが置かれているだけだ。どういうことだろう? 彼はそこに井戸があったといい、かつて日本兵は連れてきたフィリピン人を突き落とし銃剣で刺し続けたと話した。唖然とした。ここは私有地で彼らにとって迷惑だったので、まだ遺骨は残っていたけれど埋め立ててコンクリートで固めたという。「いままで遺族のフィリピン人たちはここを訪れたけれど、日本人が来たのはおまえが初めてだ」私はしゃがんで地中に向かって祈った。祈る気持ちがあるならAll Saint Day11月1〜2日に来いという。いくら私有地とはいえあまりにも哀れだ。機会を見つけて行ってみようと思う。



正直、こんな旅は気が滅入る。こんなつらい思いを、自ら買って出るのはなぜか。でも、それが旅というものではないか。旅をしていれば必ず目にしたくないものや耳にしたくないものに出会う。だが、耳を塞いでいたのでは旅にはならない。なぜなら旅とは知らないことを知る作業だからだ。そして、そうして得たものは必ず財産になると信じている。



わかったのは、残虐な戦争の現場のことだけではなかった。具体的な虐殺の情報を知らなかった人も含めて、行き会ったすべてのフィリピン人が異口同音に「戦争中日本人は赤ん坊を宙に放り投げ落ちてくるところを刀で受けて殺した」と話した。こうした、日本人がフィリピン人に何をしたかという情報は小学校の教科書に記載されているということだ。フィリピンを旅しているとリパ大虐殺のような戦争末期で日本軍が追いつめられた状況でなくとも、日本軍が強姦した後皆殺しにした話は思いがけないところで耳にする。こうしたことから、日本人に殺された親族がいるいないに関わらず、フィリピン人一般の脳裏に“カミカゼ”という言葉とともに「かつて残虐極まりないことをした日本人」という意識がトラウマとして残っていることは間違いない。その意識は普段は決してオモテに出てこないが、日本人が思いやりのない振る舞いをしたときばーっと膨れ上がってくると思われる。
ひとりひとりが私のように旅をして確認することは不可能だろう。だが、こういう知識が露微もない日本人がフィリピンに来て、特にフィリピン社会で暮らすと、どういうことになるだろう? ボタンの掛け違いが根本的なところで起こるのは間違いない。だから、少なくとも文部科学省は日本の教科書に最低限でも間違いは間違いとして事実を記すように強く希望する。私は日本にいたらこんなこと一生知らずに死ぬところだった。この国際社会、もはやそれでいいじゃないかとはならない。
振り返ってみれば、戦後日本政府がしてきたことは何だろうと思う。Yahoo!セカンドライフで邱永漢氏は書いている。

人生の仕合わせとは何かについて、中国人と日本人で、また時代によって、考え方に違いがあるようです。
中国人は徹底的なリアリストですから何の疑いもなく「財子寿だ」とすぐにも言ってのけます。

「財」とは読んで字の如く、お金があることです。
「子」とは子供がいること、女の子は他家に嫁に行ってしまうので、男の子で、ちゃんと家門を継ぎ、親孝行であることが前提です。
「寿」とは寿命のことですから長生きをすることです。
日本文化も終戦までは基本的に儒教的精神を受け継いでいますから、日中間にあまり違いはありませんでしたが、戦後、小家族制度と北欧風の養老年金制度を採り入れて、親の面倒を子供が見るという美風から遠ざかってしまったので、「財子寿」の中の子供のところが抜け落ちてしまいました。
子供は年をとった親の面倒を見なくなってしまったばかりでなく、いくつになっても親に面倒を見てもらう人が多くなったので、親の方が心配で死ぬに死にきれず、おかげで長生きをしている――と漫画のネタになりそうな光景が随所に見られるようになりました。

厚生年金制度は結構だが崩壊寸前(いやもう崩壊しているか?)ではないか。アジアの一角として長年培ってきた価値観を無くす制度を取り入れたのは間違いだったと思う。いまの日本人は自分が欧米人の一部であるかのように錯覚しているが、西洋に行ってみればわかるが文化風土的にそんなことはありえないし、欧米人は日本のクルマをAsian Carsと呼んでいる。アジアのひとりなのに欧米人のように錯覚するアイデンティティ不在が、現在の日本人の最大の不幸だと思う。長年スペイン、アメリカの植民地でありながらもフィリピンにおいてはアジアの美風がいまだに受け継がれている。実際フィリピンには貧乏という言葉は似合っても、不幸とかアンハッピーという言葉は絶対的にありえない。「ものづくり」と「マテリアリズム」の中でロボットのようになってしまった日本社会はどうだろう?
フィリピンに対してあんな非道いことをしたのに今わが国がフィリピンにしていることは果たして何だろうか? フィリピン人の心をずたずたにし、他国の領土を蹂躙しておいて自国民の遺骨も放置しっぱなし。多くの戦死者を出した戦場という負のイメージを植え付けた。もっとこの国に積極的に関与してこの国民の心のケア・補償をし、自分がしでかした事の顛末を後始末してフィリピンイメージ回復に尽力するのが大人というものではないか。ところが現実はフィリピン政府にただ金やモノを渡して終わり。自らが生んだ負のイメージについては回復に努めるどころか、マスコミとともにフィリピンは酷いところだ酷いところだと流すだけではないか。結果として日本からはあまり好もしくない人たちも集まる。その人たちのやり方は武器が札ビラに替わっただけで日本軍と同じ。多くのフィリピン人もそういう人たちが日本人だと思うようになる。ちゃんとしてない人がさらにフィリピン人のメンタリティも理解しておらず、うわべだけの付き合いのためトラブルが起こる。それがまた日本で報道される、という悪循環だ。わが国の政府はわが国が有する責任を真面目に果たしていただかないと困る。
第二次世界大戦でのフィリピン全土の日本人戦没者数は52万人といわれているそうだ。だがその大部分の遺骨はまだ収集されず、戦没者の英霊はいまだフィリピンに取り残されているとされる。一方、フィリピン国ではあの戦争で120万人ともいわれる犠牲者が出た。それでもフィリピン人は、戦後、日本人生還者や遺族の方々を温かく迎えてくれたことを忘れてはならない。フィリピン戦没者慰霊碑保存協会HPを見ると、フィリピン全土の慰霊碑調査保守管理記録があってその数に驚く。

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日本軍のフィリピン侵攻と敗退を象徴するコレヒドール島をバタアン半島マリベレスから望む(2006年撮影)
All the photos above: copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

この写真はDL-MARKETでお買い求めいただけます(809×602pixe)。

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(2007/10/03(水) 20:13)

 フィリピンと日本のボタンの掛け違い。
マニラに行く必要があったので、わざわざ8月15日の敗戦記念の日にプエルトガレラを出て、バタンガス周辺の戦跡めぐりをしながら北上した。行く先々で8月15日がどういう日か訊ねたが、知っている人は誰もいなかった。ただ、老若男女を問わず誰もが知っていることがあった。Japanese War(と彼らはいった)において、日本軍は各地で赤ん坊を宙に放り投げ落ちてくるところを刺し殺していたという話だ。大虐殺があったリパシティでの聞き込みは壮絶を極め、同じ日本人として顔を上げて相手をまともに見ることさえできなかった。辺りの住人は子供に至るまで1945年にどこでどういうことが行われたか語り継がれて事実を知っていたが、こちらがしつこく訪ねるまで決して口を開こうとしなかった。どうしてわざわざこんなに辛い思いをしに行くのかわからぬが、それが旅というものなのだと思う。フィリピンでは小学校の教科書で誰もが旧日本軍がどんなことをしたのか学ぶが、日本では義務教育で教えられずほとんど誰も事実認識していない。フィリピンは中国のように被害者意識をオモテに出さぬだけに事はやっかいである。相手の「低音部」をまったく知ることなく、まるでペットのようにフィリピン人(特にフィリピーナ)を愛する日本人は多い。そんな「愛」は早晩破たんする。人間はペットではありえないからだ。思い上がらないほうがいい。そんな「愛し方」は、「剣」を「金」に替えただけで旧日本軍がやっていた行いとまったく変わらぬ。フィリピン人の目はふし穴ではない。この旅はいずれレポートとして写真とともに紹介します。

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(2007/08/25(土) 00:17)

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