MacディスプレイsRGB IEC61966-2.1 ネイティブ・ホワイトポイント基準。 Mac Display sRGB IEC61966-2.1 Native Whitepoint Standard.
プロフィール
Author:Tetsuya Endo (Ted)
1961年、静岡県生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒。 日本デザインセンター、東京グラフィックデザイナーズをはじめ広告企画制作業界でコピーライター、後クリエーティブディレクターとして15年以上務めるも、売れども売れども、買えども買えども満たされず。カメラを手にカナダ横断を往復するドライブで「アジアの日本人」である以外何者でもないアイデンティティを悟るとフィリピンに移住。トロピカルリゾート地プエルトガレラで、サステイナブルエコノミーを目指しEconomy & Ecology, ECOH!をスローガンに、新しいビジネスに挑戦中。日本にいちばん近く安い、海外ウェディングのメッカをつくろう。個人・グループのお客様にマニラからのトランスポーテーション手配、マニラ・プエルトガレラの宿泊手配をします。また、写真撮影も行います。平行して、フォト&ノンフィクション"Transition Japan"、 "A Man Goes to North"等を上市できる出版社を探しています。
バタンガス湾に沿った道路を行くと、バタンガス港のように整備されてはいないがここら一帯は工業港のようで大型船がいくつも停泊している。マビニの手前がマイナガ(マビニ町のひとつのバランガイ)で、このあたりだろうとあるサリサリストアの前でクルマを停めた。男たちがトランプに興じていた。「ここらに第二次大戦中に日本の特攻基地があったと聞いたんだが」というと、男たちはにやにやしたまま知らないといった。年寄りが知っているという。マビニ町役場へ行けという。コーラを飲み干そうとするころ、ひとりの男が道路のすぐ向こう側にある小山を指差して「あの丘にはたくさんの日本兵の骨がある」といった。雨垂れが落ちる軒越しに見える風景は何の変哲もない。「何年か前に日本人が骨を拾いにきたがまだ残っている」「誰に殺されたのか?フィリピン人か?」「アメリカ兵との戦闘だ、そうとうの数が死んだ」屍体は何十年も放置されていてずっとそのままの状態で残っていたのだという。彼はそれ以上は知らないようだった。年の頃は50には達していないだろうか? マイナガで生まれ育ったのか聞いてみるとそうだという。彼らの態度や口調に恨みや不可解なものは感じられない。ただ、屍体だけが彼らに事実を伝えていたことになる。しかし、死んだあと埋葬もされないのはやはり哀れである。小雨の山に手を合わせて祈り、マビニ町役場へ向かう。 「老人」というのが誰を指すのかわからず役場内をうろうろしたが、ようやくエグゼクティブアシスタント(マビニ町役場のNo.2)だとわかる。Macaris B Parcojio氏で77歳、戦争時は小学生だったという。「マイナガに日本軍の特攻基地があったと聞いているが、バタンガス市役所ではマビニが激戦地だったといわれた。何かその跡とか記念碑のようなものは残っていないか? 一般的に特攻基地に付随して従軍慰安婦所もあったと聞いているが」と話しても反応はない。「日本軍のオフィスはどこにあったのか?」と訊くと海岸沿いにあったというだけで具体的な場所はわからないかのようであった。どうやらこんなことを訊ねる者はいなかったらしい。高齢で少し惚けているのだろうか? それとも当時小学生では知りえないことなのか? しかし私が「日本の組織という組織はいまだに軍隊そのものである」というと「私もその通りだと思う」と賛同したので惚けているとも思われなかった。氏はにこにこしながら今日の日本を持ち上げる話に終始していた。その様子から私には何かを隠しているかのように察せられた。
翌日、タイサンに向かった。バタンガスシティから20kmの内陸の町である。ここにはどういうわけかBundok ng MaynilaまたはMount of Manilaと呼ばれる山があって日本人がよく訪れるとか。話を聞きに役場を訊ねると若い職員たちが応対してくれ、戦争中にマニラに行軍していた日本軍が標高610mの山の山頂に立ったとき、遠方に広がる風景をマニラと勘違いしたのだといった。マニラからは94kmも離れておりありえない話なのだが、戦争中はありえない話が起こるということだろう。タイサンのあたりには多くのゲリラがいて多くの日本兵が死んだらしいが、同山はいま近郊ロボの美しいビーチやリパシティ、バタンガスシティを望む絶好の集会キャンピングサイトとして活用されているという。沖縄県出身の上原清善氏はタイサンでゲリラに捕らえられたが殺されず釈放され、これを恩に思って戦後沖縄で儲けた金をばらまき続けた。タイサンには1977年に建立された「沖縄の塔」もあり、第二次世界大戦中フィリピンで戦没した県系人をまつるものだという。また、沖縄県政府とともに上原氏が寄贈した守礼の門、事務所建物はいまは朽ち果てつつある。役場の若い職員もこれら建造物については触れなかった。外に出て偶然見つけたような格好だが、日本を捨てた私がフィリピンに肩入れしているせいか守礼の門の意匠はなにか浮いているように見えた。その隣にはメディカルセンターがあって、これも日本のNGOにより何年か前に寄贈されたという。なぜタイサンなのか理由は見つからず日本大使館からの紹介だったとのことなので、上原さんの美談に便乗しただけだろう。わが国のODAが当地での効果も吟味されずこんな風に使われているのをよく見かけるが、これでは渡した後に私利私欲で使われてしまっていると嘆く方にも責任はあるだろう。こういう国であるこそ、使途と効果を十分吟味しなければならないし、金やモノをぽんと渡してハイ終わりではぜんぜん援助にならない。腹を割る付き合いこそ、援助というものだ。
虐殺時のことを知りたいというと、案内してくれた警察官の彼は虐殺から逃れた人に会いたいか、と訊いた。私は恐ろしい思いがしたが、会って何かを確かめたいと思った。メモリアルパーク前の住人も犠牲者だということは後から知ることになり、このときはクルマで数分戻った住宅街のあばら屋のひとつを案内された。娘や孫、ひ孫と思われる家族がいて、「日本人が来た」と二階に呼びにいくと階段を降りてきた老人は、私に向かってにっこりと微笑みかけた。堪らない思いがした。彼はすぐに首を指差し、シャツをめくって心臓脇、ズボンをたくし上げて右腿の銃剣跡を見せてくれた。こんなもの見るのはもちろん初めてである。本当に言葉を失った。虐殺時の状況をいろいろ訊くつもりだったが、頭をがーんと殴られたようでただただ悲しい思いになった。娘さんがいろいろ話してくれたが、老人はもちろん、彼女の顔を顔を上げて見据え視線を交わすことができなかった。無言が続いた。俯いている私に、娘さんが「彼を見なさい」といった。「彼は泣いている」老人の目がうっすらと濡れていた。Erenio de Guzmanさんは83歳で当時22歳、虐殺で55歳の母と8歳から37歳まで5人の家族を亡くしたという。
左胸には深い刺し傷。本当によくこれで一命を取り留めたものだ。日本兵がErenio de Guzmanさんが死んだと思ったので助かったのだという。死んだふりをして生き抜いたのだという。バタンガス州での大虐殺は追い込まれ“カミカゼ精神状態”となった日本軍がゲリラ一掃という名目で一般市民に無差別に行ったものだが、Erenio de Guzmanさんも当時ゲリラのメンバーだったとのことだ。それでもこのやり方は許されるべきではない。捨て身になった自暴自棄の犠牲である。
一回目の訪問で別れ際、皆さんにお礼をとお金などでなく"PGW"ベルトを配ると喜んでもらえた。そしてニ回目に訪れたとき、親族のひとたちは思いがけないものを用意していた。米軍War Crimes Investigating Detachment(戦犯調査隊)およびGeneral Headquarters, United States Army Forces, Pacific Office of The Theater Judje Advocate, War Crimes Branch(戦犯部門戦域審判弁護団極東事務所米軍統括本部)の調査資料コピーだった。上は戦犯調査隊によるもので、背の高い方が当時22歳だったErenio de Guzmanさん、小さい方がIshidro de Guzmanさんだ。Erenioさんには背中にも刺し傷があったことがわかる。写真は1945年10月撮影とある。 もう一方の資料は1945年作成とあってINVESTIGATION: The massacre of more than one thousand civilian men, women and children by memberes of the Japanese Armed Forces on 5 March 1945(調査:1945年3月5日日本軍による一般市民男性、女性及び子供1,000名以上の大虐殺)、Place: Barrios of Lipa, Batangas, Luzon, P. I.(場所:フィリピンルソン島、バタンガス、リパの居住区域)"とある。これによると1945年3月5日午後9時頃日本軍により1,000人程のフィリピン人がリパのブリハン居住区に集められ殺害は4時間に渡ったとされ、崖から落とされた遺骸は川沿いに500〜600を数えたとある。
もうひとつ知った虐殺現場プシルは田園地帯のなかにあり見つけにくかった。バランガイロードにトライシクルが並び少年がたむろしていたので、聞いてきたことを確かめてみた。戦争世代から何世代か経っている彼らでも知っているかどうか試す意味もあった。すると、ひとりがひとりに耳打ちした。なにごとだろう? こんなことはフィリピンでも初めての経験だ。ふたりは秘密を確かめ合うかのようにした後、私に合図してついて来い、と歩きだした。何十メートルか先にあったのは普通の民家だった。住人に目的を告げていると40歳程の主が現れ、「おまえの身内は日本兵だったか?」と訊かれた。「父はそうだったが中国で戦った」と答えると、彼はいきなりコンクリートで固められた前庭の門扉脇を指し「そこだ」といった。そこにはモーターバイクが置かれているだけだ。どういうことだろう? 彼はそこに井戸があったといい、かつて日本兵は連れてきたフィリピン人を突き落とし銃剣で刺し続けたと話した。唖然とした。ここは私有地で彼らにとって迷惑だったので、まだ遺骨は残っていたけれど埋め立ててコンクリートで固めたという。「いままで遺族のフィリピン人たちはここを訪れたけれど、日本人が来たのはおまえが初めてだ」私はしゃがんで地中に向かって祈った。祈る気持ちがあるならAll Saint Day11月1〜2日に来いという。いくら私有地とはいえあまりにも哀れだ。機会を見つけて行ってみようと思う。