スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
セブ島サンレメジオの祈り。
sanremegio
Copyright © 2009 P. G. W. All rights reserved.
スポンサーサイト

テーマ:モノクロ - ジャンル:写真

【2009/11/07 10:09】 | フィリピンを一人旅して | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
カラパン~プエルトガレラ、花三景。
カラパンからプエルトガレラまでの街道沿いは見るべきものは何もないのだが、花ばかりが綺麗である。綺麗なものを見たとき、クルマを停めて立ち止まったり、わざわざ引き返して観察することは、ここミンドロ島では奇異なことではない。むしろ自然なことだ。


at-san-teodoro a2


at-san-teodoro-b3


fire-tree4

All the photos above: copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

テーマ:花の写真 - ジャンル:写真

【2007/05/17 08:15】 | フィリピンを一人旅して | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
プエルトガレラの隣町サンチェドロの人々。
カラパンからプエルトガレラへの中間点サンチェドロで、コーラを飲み休憩したついでにちょっと海岸に出てみた。灰色をした砂地の平凡な浜辺で、プエルトガレラのそれのように魅力的ではなかったが、しかしそこには人々のリアルな暮らしの姿があった。

at-san-teodoro-d1
Copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

テーマ:バックパッカー - ジャンル:旅行

【2007/05/16 08:35】 | フィリピンを一人旅して | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
カラパンからプエルトガレラへの途上。
写真を撮るという行為は、最終的には絵を描くことに行き着くと思う。アンリ・カルティエブレッソンもそうであったように。ちがった時間が流れている、フィリピンの片田舎を旅していると、写真というより絵に描きたい思いに駆られることがある。こんなことは日本でもカナダでもなかったことだ。年齢というものだろうか? それともこれがスローライフというものだろうか?

calapan-rice-field4
Copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

テーマ:バックパッカー - ジャンル:旅行

【2007/05/15 07:35】 | フィリピンを一人旅して | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
イノセンスの終着駅へ。(3)
フィリピンの旅の果て
プエルトガレラまでを綴るつもりだったが、
いまはつべこべ語るのはやめにする。
これまでの写真を整理していて、
それらが雄弁に物語っているように思えたからだ。
「イノセントの終着駅へ。(3)」は期せずして写真集となった。
写真を見ていて、
旅とは予期せぬエピソードそのものであって、
いちいち紹介して何の役に立つかとも思った。
フィリピン人には内向きと外向きの顔があり常に揺れ動いていて、
謙虚で正直なひともガラリと変わることがある。
完全に他者に依存して生きているからで、
根底にあるのは持てる者は持たざる者を助けて当然との思いだ。
しかし日本人のテッド伊藤がタガログ語で歌った
「マグヒンタイ・カ・ラーマン」がなぜ
フィリピン史上最大のヒット曲になったかは、
フィリピンを旅して少しはわかった気がする。
「いまは苦しくても、もう少し待てば、
雲のあいだから太陽の光が差し込むだろう」
と歌っているのだと、後になって歌詞を知ったとき、
私は涙が出てくるのを抑えられなかった。
なぜならそれは、
フィリピンの気候風土と人々そのものだったからである。

※写真は辿った旅程の順に並べられています。写真をクリックするとクリアで大きな画像が現れます。


sabang, puerto princesa
パラワン島プエルトプリンセサ・サバンで満月を浴びた

この写真のバリエーションがDL-MARKETでお買い求めいただけます(3,363×4,500pixel)。


mr c
プエルトプリンセサ・ブエナビスタで泊めてくれたCはお礼のお金を受け取ろうとしなかった

buenavista
バランガイ・キャプテンの息子である彼の家にも電気などなかった

c’s kids
私より若いと思っていた彼は実は同い年で、しかし数えきれないほどの子供があった



siquijor boy & flower
シキホール島の井上氏http://www.millionmiler.com/philippines/index.htmlを訪ねると、窓から悪ガキが顔を覗かせて飾ってあったぬいぐるみをねだった

siquijor shore
シキホールの光はパラワン・プエルトプリンセサより美しいのではないかと思われた

cebu bridal3
セブシティで泊まったホテルのフロントレディに妹さんの結婚式の写真を頼まれた

daan bantayan
ダアンバンタヤンはセブ島極北の地でビサヤ地方らしい田舎だった

st fe a
バンタヤン島では我先に船に乗り込み客の荷物を手にしようと男どもが待ち構えていた

st fe b
バンタヤン島のMadridejosで旧日本軍の虐殺を知った後は、こんな僻地でも、と気が滅入った



alaminos
ルソン島の旅では子供のころ慣れ親しんだ日本の風景に出会うことも多かった(パンガシナン州にて)

bolinao kids
海端に住んでいる子供たちは一様に陽気で人懐っこかった(パンガシナン州ボリナオにて)

bolinao men
この親にしてあの子あり、である。ミルクフィッシュがえも言われぬほど旨い土地だった

bolinao sea
ボリナオでも写真を固め撮りしてしまったが、住みたいからではなくて思い出に残したかったからだ

vigan
イロコスノルテ州の古都ビガンは、観光化された名物街の周囲にむしろ風情があった

pagudpud
ルソン島の北岸に達してみると、Pagudpudは美しいが茫漠としていて寂しいところだった

cagayan river mouth
カガヤン河の河口ではあっちこっちで桜えびを干しているのは驚いた。しらすも旨かった

aparri (variation)
河口はアパリという街で、なぜかフィリピンらしくなかった

kalinga
カリンガ州で写真を撮っていると「ヤクは要らないか?」と話かけられた

bontoc
マウンテンプロヴィンス州の首都、ボントックにて

bontoc man (variation)
ボントック族の男は、飽きもせずに私が風景を撮るのをいつまでも見ていた

bontoc ladies
ボントック族は家事も村単位で行う。この主食のキャッサバはこの上もなく旨かった



quezon bro & sister
ルソン島を南に下ってケソン州にて

quezon children b&w

quezon children
ケソンのそれ、兄妹ってやつだった



talisay father
タール湖の畔タリサイでは友のお父さんが椰子の実を振舞ってくれた



puertogalera-a
プエルトガレラにはいつも爽やかな風が吹いていた

puertogalera-b
プエルトガレラにはいつも爽やかな風が吹いていた

verdeislandpassage
海峡を渡って辿り着くところにプエルトガレラの良さがあった



puerto galera wedding
そして私の引っ越しと同時にアランとクリスティの結婚式があったのだ

All the photos above: copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

テーマ:海外旅行 - ジャンル:旅行

【2007/03/15 15:06】 | フィリピンを一人旅して | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
イノセンスの終着駅へ。(2)
ある意味でマニラに住むことは、東京以上につらいことだった。何が楽しくてあんな汚いところに住むのだろう。写真を撮るひとだったら、マニラの街で写真を撮りたいなんて思うだろうか? 私がマニラ圏に辿り着いたのは雨期の7月で、雨にそぼ濡れる裏通りを懐しい感慨に浸りながら撮っていたのだが、雨があがると容赦なく照りつける陽射しになすすべもなかった。

night on vito cruz ex

雨期は雨期でムッとするのは日本の比ではないし、乾期になればカンカン照りの二乗ときている。つまるところ、コンクリートで塗り固められているので年がら年中暑いのだ。私の住んでいたマカティのサンアントニオビレッジではほとんど年中夜通しエアコンが必要だった。ちょっと過ごしやすくなるのは12月と1月だけ。これがフィリピンかと思った。

backstreet in manila

住人は自慢気にグロリエッタや超大金持ちが住むビレッジを口にするのだが、あんなもの先進国のショッピングセンターと同じだし、オタワ高級官僚住宅区より断然リッチなビレッジだって一歩出ればガタガタ道路と貧民窟だ。何の面白みもない。だったら東京に住んでいた方がよっぽどましではないか。週末に東京湾の風に吹かれた方がよっぽどよい。マニラ湾は臭くてしょうがないから。

glorietta jeepny

greenbelt

では、どうして性懲りもなくあんな劣悪な環境に日本人が住み続けているかというと、日本と較べて相対的に安い物価か女かに尽きると思う。私は、例のS氏がしつこく誘うので一度だけトップレスバーなるところに行ってみたが、ロリコンではない私にとって彼女らの姿はただ痛々しいだけであった。勝手にしてくれ、である。

manila on the street

そういうわけで、というよりも、“正義”或は“筋”というものがまったく見当たらぬ憤りと思うにまかせられぬストレスから、たいして外出もせず日が暮れるとエンペラドールのコークハイを煽る毎日が続いた。エンペラドールとはフィリピンではポピュラーな安ブランデー(720ml瓶150円位!だが結構いける)である。困ったことに、マカティでも下町的なサンアントニオビレッジの我が安コンドミニアムの外に旨いフライドチキンを露天売りするところがあって、嵌ってしまった。あの油ぎとぎととエンペラドール、コーク、そして煙草(フィリピンは煙草も安い)、身体にいいわけがない。とうとう肝臓を壊してしまった。

mardy’s chiken

チキンを売っていたのはマーディという決してスリムとも美人ともいえない30前の女性であったが、眼がたいへん美しいひとで英語でもきちんとコミュニケーションとれ、フィリピーノが信じられないときいつも言葉と態度で私を助けてくれた。真面目に生きているひともいるんだと十分わかった。いったい、こういうひとの存在がフィリピンなのだと思う。さしずめ日本でいえば池波正太郎の小説の世界ではないか。フィリピンでは貸した金はぜったい戻って来ないというが、彼女は1,000ペソをちゃんと返してくれた(もともと返してくれなそうだと思ったら貸さないのだが、、、)

g

写真を公開してしまうのは少し憚れたが、いきさつを説明すれば許してもらえるだろう。彼女の名前はG、マニラの写真をモノにしようと出歩いているとき出会ったひとで、私の彼女になったかも知れぬひとだった。よくある話で子供がひとりあり、もう前の旦那のことは忘れたという。それは結構なのだが、子供がある女性には興味ないという私に積極的にアプローチしてくる。しかし、最後には、500ペソ貸してくれ、なのだ。いつも子供がどうのこうのいって、終いには泣き出す始末だ。

sa xmas a

彼女とは旦那と娘の誕生パーティを祝ったというベイウォークそばのシェーキーズ?でご馳走(?)しただけだが、彼女がしつこく要求する500ペソを与えてしまった。返ってくるとは思わなかった。だが、もしも返ってきたら付きあうことができるかも知れない、と思った。…人生は重ねてみるものである。私の予想は当たった。彼女からの連絡は途絶え、想い出だけが残った。フィリピンの心暖かいクリスマスが始まろうとしていた。

sa xmas b

All the photos above: copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

上記関連写真が、DL-MARKETでお買い求めいただけます(4,500×3,354pixel)。

テーマ:海外旅行 - ジャンル:旅行

【2007/03/10 23:23】 | フィリピンを一人旅して | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
イノセンスの終着駅へ。(1)
Innocenceという言葉は“無邪気”というようにいいように受けとめられるかも知れないが、一方で無知蒙昧で善悪の判断さえつかぬいってみれば“獣”に近い可能性も包含している。私は、フィリピンの人々の魅力をこのイノセンスという表現で表したいと思う。プエルトガレラに落ち着くまでパラワン島、ビサヤ諸島、ルソン島といろいろ旅して多様な民族に会って、その思いはますます深くなった。

その結果プエルトガレラを選んだのはアンチマテリアリズム"ECOH!"のコンセプトをやるのにいちばんよかったからで、日本からフィリピンにもっと人を呼び込むのに総合的に最高と思われたからだ。交通の便や電気がないのを厭わなければ、実はいいところはプエルトガレラの他にもたくさんある。私はこれまでの旅を何回かに分けて振り返り、いままでの出会いを確かめながら、どういう風にプエルトガレラに行き着いたかを明らかにしたいと思う。それをご覧いただいた皆さんが、少しでも関心を持っていただければ幸いである。

フィリピンというだけで何かと誤解されることが多い。
―「どうやったら、これだけ胡散臭い連中を集められるんですかねぇ。まったくここは日本人の“吹き溜まり”ですよ」日本のフィリピン特派員と話すと、決まってこういう話題になる。それくらい日本のメディアのマニラ支局には、日本の社会ではまともに相手にされないような日本人が入れかわり立ちかわり現れる。法外な儲け話に乗せられて、日本からの持参金をすっかり巻き上げられた者。在留邦人のあいだを回っては、寸借詐欺を繰り返す者。フィリピーナのヒモになっている男もいれば、日本でなら「禁治産者」の烙印を押されるに違いない人物もいる。私にしても、日本にいたら一生かかってもお目に掛かれないほどの数のヤクザを、マニラで見てきた。(野村進著「アジア定住」講談社+α文庫〈1996年原著〉より)

フィリピンにいる日本人にしてこれだから、いわんやフィリピン人をや、というわけである。残念ながらフィリピンに住む日本人は何らかの事情があって日本を逃げてきたひとが多いのは事実だろう。しかし、それはひと昔前のバンクーバーやニューヨークも同じであって、海外居住が一般化しつつある今は状況が変わりつつある。清濁を合わせ飲んできたフィリピーナ、フィリピーノだから当然彼らにも「悪」の側面はある。だが、憎めない。私は、宝物だと思えるフィリピンの子供たちの笑顔を撮るとき、いつも「聖は邪なり、邪は聖なり」と自分にいい聞かせている。この続きはまた、、、

palaw’an girls
パラワン島原住民族のひとつ"Palaw'an"の少女の踊り(プエルトプリンセサにて)※クリックするとクリアな画像が現れます。
Copyright © 2007 Tetsuya Endo. All rights reserved.

テーマ:海外旅行 - ジャンル:旅行

【2007/03/09 16:35】 | フィリピンを一人旅して | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。